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ON AIR#1585 ブライアンと卓球と

音楽
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ブライアン

・僕と同世代で、ブライアン・アダムスを知っている人はどの位いるンだろう。
で、好きだっていう人はどの位いるンだろう。
僕はまだ会ったことがない。

初めて、ブライアン・アダムスを聞いたのは、18の頃だった。
僕はいつものように、予備校の授業をサボり、大宮そごうの8階に入り浸っては、山野楽器でCDを試聴したり、ギターや音楽雑誌を物色していた。
山野楽器だけじゃないと思うけど、気になった商品のバーコードをかざすと、45秒の試聴ができる機械があった。
たぶん高校時代に、ミスチルの魅力に目覚めたりしていたはずなので、記憶が確かなら、主にミスチルのCDを試聴してはそのメロディに感動していたものだ。
CD試聴というと、その曲のオイシイところを聞けると思いがちだが、大半は、その曲の最初の45秒しか聞けないものだった。
『名もなき詩』はすぐ聞けるけど、『蘇生』は歌いだしもろくに聞けずに終わる、みたいな。

もちろんそれだけでは飽きるので、たまに洋楽も聞いていて、そのときにたまたま手にとったのが、ブライアン・アダムスであった。
ブライアンという、いかにも洋楽チックな名前に、ちょっとした憧れもあったのだろう、ほんとに軽い気持ちで聞いたら、それがよかったのである。
80年代で鎬を削ってきた人たちのロックは、やはりイントロが圧倒的にカッコいい。最初の45秒だけでもおなかいっぱいになれる。
しかも彼の場合、シンプルなエフェクトを利かせたエレキが多く、当時、家に帰ってはギターを弾いていた(おいおい浪人中じゃないのかよ)青年タジマは、単純に聞きほれたものなのだ。

45秒の向こうに、どんな世界が待ち受けているんだろう、そう思っていた、ブライアン・アダムス。

でも、結局買うことはなかった。
何故買わなかったかというと、CDは、物的証拠が残ってしまう。
浪人生なのに、CDばかり買ってるのを親に見咎められたくなかったというのが正直な気持ちだった。
あの年、B'zはソロ活動に入っていて、あまり気合を入れて買いたいという気持ちもそんなになかったので、CDはほとんど買わなかったと思う。

邦楽ならば軽く3000円を越えてしまうようなCDなんかを買うよりは、1500円で映画を観るほうが、浪人中の唯一のサボり中の時間つぶしとしては最適だったし、映画の感動を頭に記憶して半券を捨ててさえいれば、親にバレることもなかった。何より、日芸の映画を目指していたしね。

ハナシがだいぶそれたが、結局、ブライアンを再び手にし、ついにその45秒の向こうを知ったのは、つい最近である。

45秒の先は……すごかった。ブライアン・アダムス、すごいです。

シンプルかつ、パワフルなギター・サウンドは、一度聞いたらやみつきになる。
そしてメロディーが、飾らずに聞かせてくれる。
コードに導かれて、自然に出てきた言葉、メロディ。何もかもが、僕を魅了したのだった。

もっと早くに彼の存在を知っていたら、僕は映画の道を目指さなかったかもしれない。


・同じく、映画を目指さななかったら、行っていたであろう、卓球の世界。
テレビ東京の世界卓球の録画、バイト終りに観た。

吉田海偉つええ。
ペンラケットから繰り出されるドライブ、マジヤバイぜ。

偉関晴光とか懐かしいよな。代表じゃないけど。
いとうせいこうじゃないよ。

こないだ、舞台の稽古行ったときも、卓球台があったりして、ついやりたくなってしまった。

ナメるなかれ、ピンポン。


・そういえば、中学時代の卓球部員たちは、今、何してんのかなぁ。
レギュラー組は、みんな、成績優秀だったよなあ、俺以外。
いや、補欠も、T塚は熊谷高校に行ったりしてたし、頭はよかったなあ。

K澤はGWに帰省したとき、高崎線で見かけたが随分なイケメンになってやがった。
ヤツが部室に『ふたりエッチ』を持ち込んで、それが何者かにパクられてブチギレしていたのを今でも覚えている。

そのK澤、K原、Y持、A井、イノタイ、僕で、6人。
エースはA井、Y持。
僕の実力はシンガリだったんで、イノタイとダブルスを組まされた。
僕は本当はシングルをやりたかったのだけど、顧問は、失敗してイラつくとどんどん失敗する僕の性格を見抜いていたように今では思う。

そのイノタイはどこへ行ったか忘れたが、K澤、K原、Y持はツメコミ系進学校の本庄東、A井は難関の早大本庄に行った。
中学時代仲良しだった補欠のT塚は先ほども行ったとおり、あの『サイタマノラッパー』の入江悠さんを輩出した、これまた偏差値の高い熊谷高校。

僕はといえば、よく友だちには話しているネタだが……その頃好きで好きでたまらなかった、片思いの子と同じ高校に行くために無謀にも熊谷西(あの馬場俊英さんの出身校ですね)を目指し、見事に落ち、群馬県の高校か後の母校となる本庄第一に行くかで悩み、結局本庄第一へ行った。

結局、高校、そして浪人と、落ちぶれたままだったけど……不思議なモンで、今も13歳の頃に夢見た、映画の世界を目指している。いつあきらめてもおかしくはなかった11年だったけど、よく一つのことだけを追ってココまで来れた。それだけは自分を褒めてやりたい。
脚本家志望だったアイツが、今は銀行員になっていたり、小説家志望だったアイツが結婚を前提に恋人と付き合っていたり、浪人時代に知り合った映画監督志望のアイツも、結局別のことをやり始め、今では連絡がとれない。

僕には、まだ夢がある。
勉学の偏差値は低いけど、気持ちの熱さに偏差値があるなら、たぶん高めだと思う。
正しいか間違ってるかは、まだ僕にも、誰にも、わからないし、誰にも、決めさせはしない。
こんなんでもしぶとく応援してくれていた、あの頃の学校の先生たち、予備校の先生、そして親に感謝してます。


・ちょっと、昔を思い出すような記事になりましたが、ブライアン・アダムスと卓球で、繋がるものがあったので、書いてしまいました。
今日も長文失礼。よかったら読んでね、最後まで。
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